朝のサキのひとりごと

意味があったりなかったりします

ショパンのノクターン8番

今日から7月。都内は最高気温が37度ととても暑い。体温を超えている。「暑い」という形容詞は37度で使うのは間違っている気がする。30度くらいが、適切な暑いという使い方(だと思っている)。だから、この時代に合った新たな形容詞が生まれてもよさそうだ。

3ヶ月ぶりにピアノのレッスンに行った。レッスン日を決めないと練習しないのはいつものこと。なんでも期限を決めないとやらない。きっと誰もがそうだと思う。

テスト前に短期集中して勉強するように、ピアノの練習も短期集中型だ。平日の月から木曜日の4日間、超短期集中のピアノと触れ合い今日本番(レッスン)だった。

自分の中では、1週間前と比べたらとても、かなり、相当、上手くなっている。1週間前、音楽の流れもなかったところが流れていたり、弾けないところが少ししかない。

しかしながらレッスンに行くとあまりにも弾けていないと自覚してしまう。決して先生に「なんで弾けてないのに来たの。全然練習してないじゃん。音違いすぎるんだけど。」とか言われたわけではない。誰もそんなこと声に出して言っていない。完全なる被害妄想だ。想像と妄想は特技だが、現実ではない被害妄想はときに何も起こっていない現実を悪い方向へ変えることがある。被害妄想、ダメ、絶対。

ただ、レッスン後の私の頭の中で、それよりもっと酷い言葉が響いてきてしまっていた。

「全然弾けてないじゃん」

私の中の分身のひとりがこのセリフをフォルテで言っている。

他の分身たちは、数日とはいえ毎日練習したし、確実に弾けているところは増えたし、身体も覚えはじめたし、十分よくやったよ!と褒めてくれているのに。

ひとりの厳しい分身の言葉が気になりすぎて、レッスン後、悔しいとシンプルに思っている。

そんなわけで、レッスン直後の悔しさを敢えて忘れないようにするため書き綴っている。

切り替えが早く、飽き性なので悔しい気持ちもきっと長くは続かない。

「私ならもっとできるはず」と分身のひとりが言っているので、7月は毎日10分でもピアノ(電子ピアノだけれど)に触れることにする。

1ヶ月後には、今日みてもらったショパンノクターン8番を、自分が聴いても「弾けてるじゃん!いいじゃん!」と思えるように楽譜や鍵盤と関わるようにする。分身に納得してもらえるように。

ピアノ日記ほどまではいかないけれど、「今日やったこと」のメモ書きを毎日綴っていけたらと思う。

明日は、楽譜に小節番号をふる作業をする。レッスン時に小節番号で指示があることがあったから。

 

 

ブラインドタッチ

楽譜を見ながらピアノを弾くことが苦手だ。いや、苦手というよりできない。

そのため、初見演奏はもちろんのこと、譜面を見なければ止まらず音ミスもなく弾ける曲も、鍵盤を見ないとなると、歩き始めの幼児のようになる。

なかなか弾けるようにならない。何十回やってもヨタヨタ歩きが治らない。

だから練習の数をこなしていくうちに、結局は覚えてしまう。譜面を見ると弾けないけれど気づけば頭で暗記してしまっている。楽譜なしで流れるように弾けるようになる。

しかし、音楽的に弾けるようになるまでにものすごく時間がかかる。指に覚えさせるための時間、何度も繰り返し同じパッケージを練習する時間。曲のイメージと色あい。これらを身体に染み込ませるために時間を費やすのだ。

この時間を省くには譜面を見ながら弾くことができる方がいい。それに、譜面を見ながらすぐに弾ける人は驚くほどたくさんいる。これがピアノを弾ける人だと私は思っている。

こんな人を見てしまうと、私の人生の時間の100倍くらいは生きている人なんだろうなと思い、俄然羨ましくなる。

ただ、すぐに弾けて楽しいのだろうか、という疑問も出てくる。

太鼓の達人のように、少し先を読み、その通りに鍵盤上で指を素早く動かす。リズムや音を正確に読み、フレーズの流れをわかって弾く。脳の情報処理能力が高い人なんだろうと思う。

譜面を見ながら(特にほぼ初見の曲を)弾ける人は、私のなかでいつでもアインシュタイン並みの天才だと思っている。

ピアノのブラインドタッチができなければ、パソコンのキーボードのブラインドタッチもできない。

それなのに、毎日やっているエコー機の左手の操作はブラインドタッチをしていることに気づく。ただ、エコー機は指一本でボタンを操作すればいいから、ピアノの鍵盤とはまた少し違う気もする。でもエコーはモニターを見ながら右手で映したいように角度を微調整し、左手で流速を測ったり、動画を入れたりしている。確実に手元はみていないんだよなぁ。

ピアノでもできればいいのに、とずっと思っているけれど、そんなこと言ってたら人生終わりそうだから、結局は我流で、まずは一小節、どんな手を使ってでも(譜面をみてもみなくても、鍵盤にかじりついても)最高に美しく弾くことを心がけて練習するしかないのである。

なぜこのように、定期的にブラインドタッチの言い訳をしているのかというと、私がやっとの思いで100m走り切ったときに、隣で誰かが、いとも軽々と10km走り終わっていた感覚だから。同じ時間でこれだけの差がついてしまうと、馬鹿馬鹿しく感じてしまう。

だから、最近は10km走る人がわんさかいる事実を歪曲し、人類はじめて100mを走り切る人かのような気持ちでピアノの練習をしている。

人類至上はじめてこの曲を弾く人であれば、どんな手を使ってでも精一杯楽しんで、かつ、なんとしてでも弾いてやろうと俄然やる気が湧き上がる気がしている。

ゆっくり

ゆっくりが苦手だ。

ゆっくり歩く。ゆっくり食べる。ゆっくり話す。ゆっくり仕事をする。

動作をゆっくりにしていくと、身体から無駄な力がとれるらしい。

身体の力を抜いて、脱力して。私はどうやら脱力が苦手のようだ。力を抜いているつもりでも客観的には入っているらしい。

この身体しか知らないし、ずっと纏ってきたものだから力が入っているとは思わないし、疲れもないと思っていた。呼吸が苦しいとも思っていない。

主観の渦の中心にいると、それが普通だから、筋の緊張も呼吸のしにくさも誰もが同じように感じていると思っていた。

大丈夫と思っていたものが、大丈夫じゃないかもしれないと気づくときは身体が意思とは無関係に暴走するときだ。特別な行動ではなく、普段の日常生活を送るのに異変を感じたときはじめておかしいと気づく。

その後ようやく他人は同じように感じていないのかもしれないと知る。

交感神経が爆上がりしている。たぶん。すぐに認めないのが私の欠点だと思う。

ストレスなんて大したことないと思っているわりには、人混みで迷走神経反射を起こしたり、定期的に耳閉感を生じたりする。ふとしたことで動悸が起こる。更年期ならまだしも10代の子どものときからあるから、こういうものだと身体も脳も認識していたのが気づくのが遅れた原因なのかもしれない。

リラックスしているつもりがリラックスしていなかったのかもしれない。身体を休ませていますか?の問いかけに、休んでますと答えるも、休ませるって何なのかわからない。リラックスしていると口では発するものの、リラックスとはどんなもので、どんな状態で、どのように感じるのかはわかっていない。

他者の感覚を丸ごと体感できる機能を、身体に備えつけられればいいのにと時々思う。

リラックスがわからないなりに、ガラクタの中から使える品物を取り出すように少しばかりの知識を集めて、今はわかった気になっている。

リラックスのキーワードはゆっくりだと、今は結論づけている。

視力

目が悪い。おそらく裸眼の視力は0.04くらいだと思う。昨年メガネを変えたときは、さらに度を強くしたなぁと強烈にわかるくらいだったのに、今そのメガネをかけていると、もう少しよく見えてもよかったのではないかと思ってしまう。

そのくらい視力が落ちたってことなのだろうか。

普段はコンタクトを使用しているから、日常生活で目が見えにくいと困ることは今のところない。右目は強い乱視もあるけれどコンタクトで軽く矯正していたりして、今はそこまで気にならない。

メガネやコンタクトやレーシックや眼内レンズがあり、視力に関して不自由を被ることは現代はほぼないと思う。でも矯正器具が何もなければ、家の中で生活するのも不便だ。ましてや健常者全体で作られた社会に出ると、目が見えないと何もできない。それにきっと怖い。

健常者の定義が決められていなさそうだけれど、健常者が暮らしやすいような世の中になっている。障害の有無、病気の有無、体質の有無、その全てがそうだ。

身体的なことだけでなく、価値観やサービスは多数(と思われる)ものが提供されている。

朝井リョウさんの「正欲」の話を思い出した。電車の吊革広告やショーウィンドウのディスプレイは普通の人向けにある。そのほかの事業やサービスも全て。

少しでもそれから外れると不便で困ってしまう。身体的なことだけでなく、精神的なことも。

大きな世の規則正しい流れは誰が作ったんだろう。一方通行の流れるプールの世に入って、流れの通りに浮いていれば静かに目立たず過ごせるのがしれない。でもそんな人いるのかな。

流れに逆らったり、流れるプールから出てしまった(あるいは外力により弾き出された)り、これも生きるストレスだけれど、流れるプールの秩序の中で抵抗なく綺麗に流れるのも、力に反発していなさそうでこれもストレスなんだろうな。

おすすめ

今月のおすすめコーヒーを注文した。

商業施設の地下一階にある隠れ家のような喫茶店。ずらりと美しいコーヒーカップが棚に並べられている。洒落たカップをみてもどこのブランドのものなのかさっぱりわからない。

おすすめコーヒーは、エルサルバドルだった。エルサルバドルとは中央アメリカにある国だそう。ざっくりメキシコとかパナマとかその辺り。そのエルカルメン農園で栽培されたものとのこと。

すでに知らないことがわんさか出てくる。

おすすめというものは、勧める側と勧められる側に知識の差や情熱の差がある。

おすすめしたくて勧める人は、その事柄について詳しい。そして好きである。推したいからすすめている。

一方で勧められる人は、受け取る側だ。受信者の既知の知識や趣向にもよるが、おすすめの事柄について詳しく知らないことが多い。

だから、おすすめのものは知識欲がくすぐられる。

誰かのおすすめを受け取ると、初めてコンタクトをつけたときのようにぐんと視界が明瞭になる。数メートル先にある花の花弁までくっきり見えるような。

おすすめを注文して味わうと人間としてのコクも深くなる気がする。

ちなみにエルカルメン農園とは、熱帯雨林の保護のインフォレストアライアンス認証を受けた農園とのこと。

エルサルバドルはブルボン種であり、ビターチョコのようなまろやかな苦味のあるコーヒーだった。

雨戸

朝は晴れていたけれど、不安定な天気のため出勤するために念のため雨戸を閉めてから家を出た。昼間は雷がなったりバケツをひっくり返したような土砂降りの雨だったりしたけれど、雹が降ることはなかった。雹は莫大なエネルギーを持って地上に猛獣のように襲いかかってくるためとても恐ろしい。

雨戸は、日常に降る雨の日には使われない。雨戸が表舞台に立つときには、滅多にない異常事態のときだけだった。

実家の掃き出し窓の端っこに雨戸が重なって収納されていた。豪雨になる可能性のある時には、雨戸を窓全体を覆うように閉めていく。

雨戸で抜かりなく家を防護すると、家の中は昼でも真っ暗だ。

この暗闇の薄着悪さが非日常を漂わせ好きな空間だった。クリスマスや誕生日というイベントのような高揚感。嵐の前の静かさは私は好きだ。

外敵から身を守るため、厚いバリアを張る。雨戸を閉めれば安心。雨戸は一家を守る大黒柱のような立ち位置にある。

家の中は安心に満ちているはずなのに、外界から疎外された感じが残るのも、硬くて分厚い雨戸の付属品なのだろう。

車が吹き飛ぶほどの突風や川が氾濫するほどの豪雨はごめんだけれど、雨戸を閉めて嵐を待っているときの静かさが好きである。

ヤマメ

ヤマメとイワナは同じだの違うだのという話になった。ヤマメとイワナはどちらも冷たい川に生息し、渓流釣りの定番だ。川魚は全体的に灰色がかった色をしていると認識している。あまりにも抽象的でアバウトだけれど。

ヤマメとイワナは違うというのが結論だ。しかし同じでも違ってもそこは重要視していなくて、ヤマメという言葉から、ヤマメって遠い記憶のどこかで聞いたなぁとぼんやり思考を巡らしていた。

ヤマメの絵本があったかもと、うろ覚えだが思い出した。ヤマメが食べられそうになったりそうじゃなかったり、というような話のような。あまりにも記憶が朧げなので、調べてみた。

やはりヤマメが主人公の絵本があった。それを4、5歳のときに読んでいた。

子どものヤマメがお腹をすかして食べ物を探している。エサを見つけてもヤマメおばさんや、イワナおじさんに先に食べられてしまう。しかしその直後イワナおじさんは鳥に食べられてしまう。子どもヤマメはようやくエサを見つけ食いついたら釣り上げられて目の前には人間がいた。そんなようなお話だ。

脳の記憶は不思議なもので、今日までこの絵本のことをすっかり忘れていた。ヤマメというとっかかりが絵本に再会させてくれた。

イワナが鳥に食べられてしまうところに衝撃を覚え、記憶の彼方のどこかでフックされていたのだろう。

ヤマメという言葉は、きっとこの絵本を読んで初めて知ったのだと思う。ヤマメって言うんだ、という単純な認識と感動が確かに5歳児の頭に入っていた。

何十年も経って、記憶が引っ張り出されることってあるんだな。蓄積されたものが突拍子もなく、雲の上に乗った仙人のように現れて、過去の私から現実の私にベルトコンベアのように受け渡されていく。

未来の私にも何が流れていくのか楽しみになってきた。