朝のサキのひとりごと

意味があったりなかったりします

自由

まっさらな五線譜に、定規で縦に線を引いて小節を作り、左端に覚えたばかりの歪んだト音記号を鉛筆で描く。先生の言った通りに、ト音記号の隣に四拍子を表す4/4と書いたら、あとは自由に音符を書いていきメロディーを作っていく。仕上げに「ド」は赤、「レ」は黄、「ミ」は緑というように、音符に色を塗る。カラフルになるとノートから音の粒が飛び出してきそうだ。

音楽ノートをオレンジと黄緑色の蛍光色のリュックから取り出して、教室にある二つの木箱を離して置き、その上に赤い板をのせた簡素な作りの長い机の上で、幼い私は黙々と手を動かしていた。

 

音楽教室の作曲の時間が好きだった。オルガンを弾いたり、ギロやトライアングルやタンバリンや鈴という、打楽器を使って生徒全員で合奏するのも好きだった。けれど、机に座ってノートを開き、鉛筆を握りしめ黙々とする作業は4、5歳からすれば十分大人びた行為だった。

音楽教室なのに、奏でることなく勉強している姿がかっこいいと、どこかで思っていた。大人は机に向かって手を動かしているイメージがあったから。

 

自由に作曲する時間が不定期に何度か訪れた。完成した曲を先生に見せると、私はよく訂正されていた。

曲の終わりは、「レ」じゃなくて「ド」がいいよ、と。

私はよく「レ」で終わっていた。きっと曲の構成を考えると「レ」だと不自然だったということなのだろう。理論を知った今なら少しはわかる。

「ド」の方が終わった感じがするでしょ、と先生は私が作った曲と、「ド」で終わった曲の二種類を弾き比べて教えてくれた。

曲が終わった感じがする、落ち着いた感じがする。言われてみると、「レ」より「ド」で終わった方がしっくりくる。いや、しっくりくるような気がした。

乱暴な言い方をすると、しっくりくると感じる方向に強引に導かれた。

 

自由に音符を書いていい作曲の時間はその後も何度も訪れ、心の思うまま自由に作っていった。自由に作っていくと、意識せずとも自然と終わりが「レ」になっていた。その都度、先生からは同じような指摘を受けた。指摘と言ったって全然厳しくない。むしろ丸くて柔らかい言葉。

「レ」だと不安定でまだまだ曲が続きそうな感じがする。「ド」にすると曲が収束していく感じがする。

 

「ド」で終わるとありふれた音楽と一緒だ。似たようなものになるのが嫌で、「レ」で終わるように作ったのに。

繰り返し同じ指摘をされることで、私はあることを知っていった。

「自由」は「自由じゃない」と思った。自由という不自由を求められている。自由の中にも、「決まりがある」と感じた。

自由でも決まりごとがあるものならば、それは把握しておきたい。けれど芸術や感性の自由には決まりごとはないはず。

 

それから数年経ち、ピアノの個人レッスンで、タイトルのない曲と出会った。先生は、「自由にタイトルつけていいよ」と言ってくれた。

初回のレッスンは片手づつ。そのときまだタイトルは決められていなかった。しかし次回になっても、そのまた次になってもタイトルは決められなかった。

頭の中では100個近くタイトルが湧き上がっていた。その中で、先生の言う自由なタイトルはわからなかった。間違えたタイトル名を言うと、また訂正されるのではないかという、少しの恐怖と嘲笑と諦観が入り混じったような気持ちになった。

その曲のレッスン最後の日、私はタイトルを決めることなく終わった。今でもその曲のタイトルは空白のままになっている。